マッサージとは・・・

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マッサージとは、
学び始めることは出来るが、
決して学び終えることのないなにかだ。

それは、
何処までも続いていく・・・
経験は深まり、高まり続けていく。
それは、最も繊細なアート・・・
技術の一つだ。

テクニックの成熟度が問題なのではない。
それ以上に愛が問われる。

まず、テクニックを学んでごらん。
学び終えたなら、
テクニックを忘れ去ってしまいなさい。
そして、ただ、感じ、
感じるままに動いてごらん。

マッサージを深く学んでいけば、
その90%のワークは、愛によって為され、
10%は、テクニックによって為される。

ただ触れること、
愛を込めて触れることで、
身体の中の何かがくつろぐ。
その人を 愛し、慈悲を感じるならば・・・
相手の究極の価値を感じるのなら・・・
その人を
正さなくてはならない機械のように
扱うのではなく、
とてつもなく価値のあるエネルギーとして
扱うならば・・・

その人があなたを信頼してくれ、
自身のエネルギーと
戯れるのを許してくれたことに
感謝の念を覚えるならば・・・

あなたは、次第に
オルガンを奏でているかのように
感じられるようになる。
その人の身体全体が
オルガンの鍵盤となり、
その身体の中に
ハーモニーが築かれていくのを
あなたは 感じるだろう。

そして、
その人ばかりが癒されるのではない。
・・・あなたもまた、癒されるのだ。

マッサージは、
この世に必要とされている。
というのも、
この世から
愛が消えてしまったからだ。

かつては、
愛する人が触れるだけで、充分だった。
母親は子供に触れ、その身体と戯れた、
それはマッサージだった。
夫は妻の身体と戯れた、
それはマッサージだった。
それだけで充分以上だった。
そこには、
心からのくつろぎと愛があった。

しかし、こうしたものは
この世から消えてしまった。
次第に、何処に触れたら良いのか、
どう 触れたら、
どのくらいの強さで触れたら良いのか・・・・
人は忘れてしまった。
事実、触れることは
最も忘れられてしまった<言語>の一つだ。

触れることは
ぎこちないものになってしまった。
何故なら、いわゆる宗教家によって、
正にその言葉自体が汚されてしまったからだ。
彼らは、「触れる」という言葉に、
性的な色合いをもたせた。
その言葉は、
性的なものになってしまった。

こうして、人々は
<触れられること>を恐れるようになった。
誰もが、許可することなしに、
誰からも
触れられることのないように注意している。

そして今や、西洋では
これと対極をなすものごとが起きている。

「触れること」やマッサージが
セックスそのものになってしまったのだ。
今やマッサージは、
セックスを覆う単なる表紙、
包みになってしまった。

だが、実際には
「触れること」やマッサージは
性的なものなどではない。
それは愛の機能だ。

愛がその高みから落ちてしまえば、
それはセックスになり、
醜悪なものになってしまう。

だからこそ、
祈りに満ちていなければならないのだ。
人の身体に触れる時には、
あたかも神その人自身が
目の前に 横たわっていて、
あなたは神に仕えているかのように
祈りに満ちていなければならない。

全てのエネルギーと共に流れてごらん。
そして、身体が流れ、漂い、
エネルギーが新たなハーモニーを築くのを
目の当たりにすれば、
今までに感じたこともない程の
喜びが 感じられるだろう・・・
あなたは、深い瞑想の内へ落ちていく。

マッサージをしている時は、
マッサージだけすること。
他のことを考えてはいけない、
それは邪魔になる。

指や手の内に、
あなたの全存在、魂が存在するかのように
「ありなさい」

マッサージを
単なる身体に「触れること」 にしては、駄目だ。
魂の全てが相手の身体の中に入り、貫くことで、
深奥の「もつれ」が 解放されるのだ。

そして、何より
「遊ぶ」ようにして行うことだ。
仕事にしては 駄目だ、
ゲームのように、楽しんでするのだ。

笑ってごらん、
そして相手も笑わせてごらん。
Osho – Hammer On The Rock